我が愛しきロンドン

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「ロンドンのどこが好きなの?」

ものすごい頻度で受ける質問だ。

私の答えはいつも同じ。

「人と文化の多様性が心地いいから」

ロンドンは並外れたコスモポリタン都市だが、自らのアイデンティティとも否応なく向き合わされる場所でもある。

「あなたはどこから来たの?」「◯◯から。今はロンドンの△△に住んでる」「ロンドン生まれだけれど、父方はXX、母方は◎◎の出身だよ」

◯◯には地球上のありとあらゆる地名が入り、△△XX◎◎との組み合わせはほぼ無限。この街に住む人達は、私を含め驚くほど多種多様なバックグラウンドを持っている。生まれた場所、背負っている文化・宗教的背景、そこで培ったアイデンティティ。違って当たり前のロンドナーだが、この感覚を母国以外に住んだことのない友人や家族に伝えるのは難しい。

人は育った環境から価値観をつくりあげるので、凝り固まった価値観を再点検するのにロンドンのような都市は打ってつけだ。違いを体験し、人は初めて自分の価値観が絶対ではないということに気づく。Aを良しとする国もあれば、Aなどもってのほかと糾弾する国もある。しかしAはAであって、Aという現象の本質が変わることはない。いかに観るか、視点の問題であり、一定の価値観をベースに判断しているにすぎない。

こちらのデイリーメールの記事によると、現在ロンドンに住んでいる約860万人のうち3分の1が英国外で生まれた人々で、あと15年もすればロンドンの人口は英国外生まれの占める割合が英国生まれよりも多くなるだろうと予測されている。じっさい現時点でも2世や3世を含めればすでに生粋の英国人は少数派でもある。

異なる背景を持つ人々が、同じコミュニティで共生していくには、一体どうすればいいのだろうか?

共通するルールに加えて、寛容さ、思いやり、他者への理解や敬意といったことが必要になってくるのは明らかだ。あなたが外国人なら、住まわせてもらっている国への感謝の気持ちもあるほうが暮らしやすいかもしれない。縁あって住まわせてもらっている国だ。その土地の人々が古来住み育ててきた文化なり風習なりを尊重するのは当たり前のことであり、慣れない外国人にとって風当たりが強いと感じることが少しくらいあったとしても、自国でないのだから波風あって当然、これも学びと思えばヘコむこともあるまい。

こういった話はロンドンに住む日本人とよく話題にする。異なる価値観を持つ人々が暮らすコスモポリタンな街では、それまで築き上げてきた価値観を揺さぶられる経験を誰もがすることになる。それを「辛い」「合わない」と感じる人々は自国に帰ってふたたび穏やかな生活に戻っていく。

しかし帰る国のない人々にとって、事情はやや異なる。

紛争など自国の事情で泣く泣く難民として英国に移住してきた人々も大勢いる。彼らは貧しく、自分の意志とは関係のないところで運命の輪を紡いでいる。しかし難民としてやってきた先がロンドンならば不幸中の幸い、かもしれないとも思う。なぜならロンドンならチャンスの女神はいくらでも微笑んでくれるからだ。

先日、Timeout誌をめくっていたら、ミュージシャンでアーティストのM.I.Aが、毎夏恒例サウスバンクの芸術祭「Meltdown」をキュレートするという記事が出ていた。

Meltdownは今年で24回目(今年は6月9日〜18日)。過去にはエルビス・コステロ、ニック・ケイヴ、デビッド・ボウイ、モリッシー、パティ・スミス、ジャービス・コッカー、マッシヴ・アタックなどキラ星のごときアーティストたちがキュレートしてきた。2013年にはオノ・ヨーコがキュレーターを務めて話題となったが、24年間のうち女性キュレーターは今年のM.I.Aで5人目だとか。

父親はスリランカ政府に対する元反政府組織のメンバー。幼い頃、活動家である父親と生き別れとなったという少女が11歳で難民としてロンドンに来て教育を受け、自身の才能を花開かせて世界的に活躍し、英国の首都ロンドンを代表する芸術祭Meltdownのキュレーターに選ばれるという事実には、やはり注目すべき物語があると思う。あるいはパキスタン系の現ロンドン市長、サディク・カーン氏がムスリムであることを考えても、ロンドンという街の懐深さが伺えるのではないだろうか。

今年3月にはウェストミンスターで反政府的な襲撃事件があり、5月にはマンチェスターで7名もの人々が死亡する爆発事件が、さらに先週土曜日の夜にはロンドン・ブリッジで暴走事件が起きた。亡くなられた皆さんには心からの鎮魂の思いを捧げたい。また負傷された方々のやるせなさ、事件に巻き込まれた方々のご家族、友人の皆さんは、どれほど心を痛めておられるか、思いを馳せるだけで辛い。心も身体も一日も早く回復されますことを、心からお祈りしています。

 

London chinkon

 

一連の事件は無差別に人々を傷つけるという卑劣な方法がとられ、「テロ」という扱いになっている。これらの事件をニュースで知って、悲しみ、怒り、そして怖れを感じた人々も多いだろう。しかし、ここで誤解を怖れずに提案してみたいのは、この事件を起こした人々も(その背景にいる人々も)私たちと同じ人間であり、事件を起こした理由が様々なレベルにおいて存在するということに、少しフォーカスしてみてはどうだろう?ということだ。

フォーカスするのは、政治的な理由ではなく、人間的な理由、である。

なぜこの事件は起こったのか?

例えば Xデーに至るまでの、犯人の全人生を描き出すドラマを見てみたら、少しはその理由が分かるかもしれない。描写は詳しければ詳しいほどいい。犯人が育った社会や環境、育てられ方、犯人の両親や家族について、家族のバックグラウンド、 民族的背景や歴史、その歴史を形成する国家間戦争や国内紛争など諸々の事ども、国と国の思惑、学校での教育、友人との関係、親兄弟との会話、愛情のかけられ方・・・こういった全てを、壮大なドラマとして丹念に、詳細・忠実に描いてみてはどうだろう。

そこには間違いなく事件が起こった人間的な「理由」に近づける物語がある。ニュースの切れ端からは見えてこない、人間として真実の物語だ。あなたがもし、優れた監督・制作スタッフによって作られたその作品を見たとしたら、主人公の心の真実に気づいて慟哭するかもしれない。自分との共通点を見出して居心地が悪くなるかもしれないし、主人公をそっと抱きしめてやりたくなるかもしれない。あるいは、殺伐とした心象風景を見させられ、ただただ哀しみを感じるだけかもしれないが。

この映画は、じっさいに作るとなるとまさに大河ドラマのように長大な作品となるだろう。詳細に渡って描けば描くほど、観る者はあらゆる事象が大なり小なり関連しあっていることに気づく。Xデーに向け、大きく感情と事象のエネルギーが層を成しながら収斂していく・・・ 。そして、はたと気づくのだ。

その事件に「関わりのない」人など、この世に誰一人として存在しないということを。

事件を聞いて「怖い」「酷い」「腹が立つ」と思った人も、怖れや悲しみという感情を味わった後は、少し視点を上にひっぱりあげて、ニュースから取りこぼれている人間的な真実にフォーカスしてみることをおすすめしたい。

あなたの隣人は、どんな人だろうか。

怖れの気持ちをもって接したときは、怖れの反応が返ってきはしないだろうか?  にっこり笑って接した日には、相手の空気も緩むものだ。むっつり黙っているかに見えるあなたの隣人は、ただ「愛がほしい」「幸せになりたい」と願っている、あなたと同じ人間なのだ。怖れでなく、愛を表現することで、こういった事件が「起こる余地がなくなる」ことに皆が貢献することになると、私は信じている。

ロンドンは「他者を認め受け入れる」という文化を、時間をかけて育んでいる先進的な都市だ。ここに住めることを、とても誇りに思う。

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About Author

江國 まゆ

岡山県倉敷市出身。ロンドンを拠点に活動するライター、編集者。東京の文芸系出版社勤務、雑誌編集・ライターを経て、1998年渡英。英系広告代理店にて各種媒体の翻訳ローカライズや日本語コピーライティングを担当。日本語翻訳リライトのスペシャリスト。2009年からフリーランス。趣味の食べ歩きブログが人気となり『歩いてまわる小さなロンドン』(大和書房)を出版。2014年にAbsolute Londonを立ち上げ、編集長として「美食都市ロンドン」の普及にいそしむかたわら、オルタナティブな生活、人間の可能性について模索中。

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