物語に身をまかせよう

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本日のブログ・テーマは、ズバリ「悟り」(驚)。この瞬間、自分でもどういう結びになるのかよく分かっていないのだけれど、しばしお付き合いを ^^

今年9月に当サイトが1周年を迎えた際、こんな記事を書いた。ここで私は、自我を肯定し、人生とは自らの意思で創り上げていくものであり、そのためには怖れではなく愛が必要なのだと言っている。一瞬一瞬を自ら選択し創り上げていく自分の人生、当然、責任は100%自分にある。人生をよりよくしようと思ったら、自我と向き合い、自分自身と対話することが大切なのだ、と。(まぁ、両親や生まれる環境も事前に選んできているというのがスピリチャル的には定石でありw、その見方のほうがしっくりくるので、ここでもその立場を採りたい)

そして秋以降、この「自我」についてさらなる思索を深める機会が否応なくありw、現在は、自我というのは基本、不要なのではないかと思い始めている。

芥川龍之介が『薮の中』で活写した通り、人間は百人いれば百様の視点があり、それぞれがその人にとっての真実である。そこには、客観的な事実というもの存在しない。突き詰めると、あなたが見ている現実とは、あなたの意識、つまり自我が創り出しているものだ。世界とは畢竟、あなたの意識を映し出した鏡/ホログラムにほかならない。

では、「自我」とは何か? 自我は幼少時から作られる人の「鎧」である。「自分」というアイデンティティを守るための鎧。「自分とはこういう人間なのだ」と思い込ませている諸々のこだわり。感情。個人的記憶。「私はあなたとは違う」という分離の意識。

人にどう思われているかとか、嫉妬や憧れ、蔑みや尊敬、執着や怖れ、比較、見栄、すべて自我から発せられる感情や思考、マインドであり、そこにこだわればこだわるほど、苦悩が生じる。それがたとえ愛情や尊敬、喜びといった一見ポジティブな意識や感情だとしてもだ。

例えば苦手な人がいるとしよう。会社の同僚でも、友達でも家族でもいい。その人のある側面を「嫌」と思う部分は、自分自身の「嫌」な部分を映していることが多い。その要素がゼロであれば、嫌悪感や苛立ちは感じないもの。苛立っている原因を突き詰めていくと、結局は自分自身が抱える葛藤に行き着くだろう。まぁ、このへんは心理学やなんかでも自己投影とか鏡の法則などという言葉で表現されていることなので、ご存知の方も多いと思う。

というわけで、育っていく過程で大人から植え付けられた社会通念と、自分自身の経験や記憶に基づく「こうあるべき」「ねばならない」という意識、そこから形作られてきた自我こそが、人の可能性を狭め、苦しめているものの正体であることが分かる。

では自我から解放されるにはどうすればよいのだろうか?

解決策の一つに、「起こっている現象を判断しない」という方法がある 。判断せずに、まず受け入れてみる。人の判断はどうしても過去の経験や感情をベースとしているため、それが自我の曇りとして現れてしまう。そこでこう考えてみる。一見、ネガティブに思えることでも、それはその現象に関わる全ての人にとって、ベスト・タイミングで、ベストなことが起こっている、と。

一人の人間が人生で経験するすべては、その人が成長するために、すべてが完璧なタイミングで起こっている。現象のすべての責任は自分にあることを理解し、葛藤や感情なく受け入れられるようになると、全ての現象に感謝の気持ちが生まれ、人生への信頼が増し、ぐんと生きやすくなるだろう。

では、「自我」や「エゴ」が自分という存在を守るための鎧だとしたら、その鎧を取り除いた後には、いったい何が残るのだろう?

それは「真我」とでも言うべき本当の自分、だという。

本当の自分は、存在・魂そのもので、自我の曇りがない。そのままで完全で、自他の区別もない。全ての人間は自我という鎧の内側に、この本当の自分を持っており、その存在を通じて人類全部が繋がっているということらしい。つまり我々はすべて、本来は大いなるものの一部としての完璧な存在、ということになる。

つまり「気づき」とは、その本当の自分に気づき、大いなる存在として真我/魂の命ずるままに生きる、ということと見た ・・・・

・・・・ と、ここまで理解が進んだところで、先日、ハムステッドであった大田和菜穂さんの「ノンデュアリティ」の講演を拝聴する機会を得て、衝撃の情報に接してしまった  (゜д゜;)

その内容とは・・・「この世も人も存在しない」というもの。これは文字通りの意味で、この世で起こっていることはすべて幻想・・あたかも起こっているように見えるストーリーであり、このストーリーを含め、実は何もない。

あるのは空(から)の空間、あるいはエネルギーのみ。ひとつのエネルギーの表現として全体が現れているだけで、実際はそこに物質も意思もない。すべては起きていて起きていない。素粒子がすべてとして現れている。つまり世界は「ノン・デュアリティ(非二次元)」なのだ、と。

では、この世の中とはいったい何なのか? という問いに対しての答えは:

(A)「この世の正体は永遠に知れない。誰にも分からないが、ただそれしかない

というものだった。

曰く:

「人は『知りたい』生き物。人が究極的にこの現実の世界で求めているもの。それは愛だ。人は成長して自我が生まれると、いつも何か足りないという感覚を感じ始める。「十分でない」という感覚を埋めるために、次の瞬間、人は常に何かを求め続ける。お金、人からの愛、成功、健康、自己成長。これらの何を手に入れても、この物足りなさを埋めることはない。なぜなら、世界中の人が求めているものは、完全に満たされている、完璧な、ここに常にある一体そのものだから。この完全に満たされている感覚こそが、真の愛とでも呼ぶべきもの」

・・・・ と、ここでまた上述の(A)に戻る。

つまりノンデュアリティは、個人が永遠に知り得ることではないのだ。

無条件の愛であり、完成されている全部のこと。個人という知りたいエネルギーが消えたときにあるすべて。全体のすべて。ノンデュアリティとはそういうもので、概念ですらない。

我々が経験している(かに感じている)現実にあっては、自我も真我も魂もマボロシ、我々は共同幻想の中で個々のストーリーを紡ぎながら生きている。(もちろんそれらはすべて起こっていて起こっていない。)

であるならば。

肉体と意識という幻想をまとっている我々としてはやっぱ、このストーリーをめいっぱい楽しむしかないんじゃね?

というのが、私の感想w

自我から発せられている「十分ではない」という感覚は、成長のためのエネルギーとなる。覚醒しようがしまいが、私たちにできることはマボロシの世を楽しく生きるってことなのだ。

ちなみにエササニの大スター、バシャール先生は「エゴとうまく付き合いなさい」と言っている。エゴを嫌なヤツだと排除するのではなく、自身に気づきをもたらしてくれる協力的なパートナーとして感謝しなさいと。エゴはエゴの仕事をしているだけなんですよと。

確かに。自我の動きを客観的な目で観察する、というのも、気づきのために有効な方法だ。自我は 本当の自分ではないという認識を前提として、真我から自我を観察するという観想法である。

それともうひとつ。最初に書いた「判断しない」というやり方。過去の感情や経験、知識から状況を判断しそうになったら、「ん、ちょっと待てよ」と判断を保留にしてみる。ヘンな感情が出てきたら、一瞥ののちに手放してみる。怖れではなく、愛を選択してみる。職場で、家族の食卓で、スーパーマーケットで、ちょっと愛のスパイスをきかせてみる。こういうことを意識的にしていくだけで、けっこう日常生活が楽しくなる♪

客観的な真実が存在せず、世界はそれぞれの意識の反映だとしたら、人生にマニュアルはない。あるのは、あくまでそれぞれの魂が経験する物語のみ。魂が究極的に求めているものがノンデュアリティという永遠に知り得ぬ愛だとしたら、私たちがその一部であるという情報を脳の片隅におき、あとは物語に身をまかせるしかない。もちろん、ワクワク主導で ^^

この美しき四次元地球という幻想の中で。

【12月10日追記】
今日、ピカデリー線に乗って北上しているとき、ふと気づいた。私が宇宙の一部であるならば、それは間違いなく完璧なものであると。私という存在は完璧で、経験していることのすべてが完璧に起きている。だから、宇宙の一部である自分を信頼し、起きていることにただ身を任せればよいのだと ^^

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About Author

江國 まゆ

岡山県倉敷市出身。ロンドンを拠点に活動するライター、編集者。東京の文芸系出版社勤務、雑誌編集・ライターを経て、1998年渡英。英系広告代理店にて各種媒体の翻訳ローカライズや日本語コピーライティングを担当。日本語翻訳リライトのスペシャリスト。2009年からフリーランス。趣味の食べ歩きブログが人気となり『歩いてまわる小さなロンドン』(大和書房)を出版。2014年にAbsolute Londonを立ち上げ、編集長として「美食都市ロンドン」の普及にいそしむかたわら、オルタナティブな生活、人間の可能性について模索中。

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