ウィーンで考えた2024年のこと。

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クリスマスくらいはどこかに脱出したいと願っていた。

2023年後半は複数のプロジェクトが重なり、締め切りに向かってひた走る日々が続いていた。年末も近くなってくると次第に息切れが激しくなり、休暇の日々を夢見るようになっていった。

そこで決めた行き先が、オーストリアの都、ウィーンだった。歴史上、多くの物語の国際舞台となり、会議が踊り、第三の男が暗躍し、魔笛が鳴り響く、あのウィーンだ。

ウィーンはもともと行きたい都市の上位に入っていた。その独特のカフェ文化に興味があったし、カフェの容れ物となっている華麗な古典建築や、その文化を形成した人材、王室など、歴史ストーリーあふれるウィーンは憧れの都でもあった。かつてはヨーロッパの列強として鳴らし、第一次世界大戦を引き起こした直接の要因もここにある。歴史舞台における主役級の役割を演じ続けたウィーン。

しかしそんなことよりも何より、オーストリアはクリスマス・マーケットの本場なのだ!

発祥の地とさえ言われており、ロンドン市内の小手先のクリスマス・マーケットとはワケが違う。昨今のロンドンで見られるシャレーと呼ばれる屋台も、元はと言えばオーストリアやドイツから輸入したものだ。

というわけで、本場のクラシカルなクリスマス・マーケットの美しさはいかばかりであろう?という熱い思いを胸に、ウィーン空港に降り立った私なのである。

そして・・・空港の窓からふと外を見ると、なにやら白い風景が広がっているではないか。ゆ、雪!?  すわホワイト・クリスマスかと小躍りしたのだが・・・その後、市内へと向かうタクシーの中で雪はいつしか雨に変わってしまった。

クリスマス・イブの、前日のことだ。

 

ところで「本場のクラシカルなクリスマス・マーケット」ってどんなの?と思われたあなた。筆者の狭い見解を披露してしんぜよう。

まずは舞台。クリスマス・マーケットの舞台にふさわしいのは、ヨーロッパらしい歴史ある広場をおいて他にない。ほら、ちょうどブリュッセルのグラン・プラスのような。背景に立派な建物が見えていることが必須だから。

そしてシャレーと呼ばれるログハウス風の屋台で売るのは、風船やプラスチックのおもちゃなど、キッチュなものはお断り。手作りのクラフトマンシップを感じるプロダクトが望ましい。そしてイルミネーションはあくまでもシンプルに。色とりどりのデコデコとしたアメリカン・スタイルでは、興を削がれてしまう。

イギリス風に言うなら、ヴィクトリアン・クリスマス、だろうか。

ヨーロッパのクリスマス・マーケットに一番近いのは、ロンドンならウィンター・ワンダーランドだと言う人がいたが、まさか。広大なハイド・パークの中に作り上げられた張りぼてのクリスマス・マーケットなんて邪道。規模がちょっと大きすぎるし、大味で、情趣に欠ける。

ともかくヨーロッパらしい石造りの建物、こぢんまりとした広場、古典的なシャレー、そしてシンプルで朴訥なイルミネーション、プリーズ! 雪が降れば言うことなし。

そして私は、ウィーンで思い描く通りのクリスマス・マーケットに、出会うことができたのだ。

 

 

ウィーンではざっと主要なものを数えると7カ所でクリスマス・マーケットが営まれており、そのうちの3、4カ所を訪れたが、私のイメージにぴったりきたのが、ウィーン市庁舎前の広場で繰り広げられていたこのマーケット。きらびやかで、ノスタルジックで、これぞクリスマス・マーケットの中のクリスマス・マーケットだ。

どこか郷愁を誘う2階建てのメリーゴーランド、お城のような市庁舎前に飾られたシンプルで背の高いツリー、小さな観覧車、ぐるぐる一方向に回るスケート場、専用マグカップに入れてくれるホットワインも含めて、全てに不思議な力が宿り、歩きながら笑みが止まらなくなってしまった。

 

 

クリスマス・マーケットを盛り上げるもの?

てんでバラバラの場所から集まってきた魂たちのざわめき。祝祭のライトに照らし出された樹々の表情や建物の陰影。

この季節独特の異次元オーラや、過去から浮き上がってくるストーリーなど。

 

 

ウィーンは言わずと知れたハプスブルク家の本拠地だ。

ハプスブルク家は中欧で絶大な権力を誇った一族であり、政略結婚によってヨーロッパ王族の核として勢力を拡大していった。第一次世界大戦をきっかけとして帝政が終わってしまった今は、その名前だけが世界史の中で一人歩きし、栄華の名残を留めている。

現ヨーロッパ王室の「母」と呼ばれているのが、イギリス・ハノーヴァー朝のヴィクトリア女王だと言うのは、英国ファンにはよく知られていることだが、1世紀くらい時代を遡ると、その役割はハプスブルク家のマリア・テレジア女帝が担っていた。

彼女には夫婦仲の良い夫フランツがいて、彼との間に16人の子どもがおり、夫の死後はずっと喪服で通したというところも、ヴィクトリア女王そっくり。マリア・テレジアの子女の中には、フランスのルイ16世に嫁いで首をはねられたマリー・アントワネットもいる。ハプスブルク最後の皇帝となったのは、マリア・テレジアの孫だ。

 

 

最後のオーストリア皇帝であるフランツ・ヨーゼフ1世は、バイエルン王国の公女であるエリザベートという快活な乙女に一目惚れし、求婚した。

このエリザベートは美貌と型破りな行動で知られ、今も国内で大きな人気を誇っている。ウィーンのいたるところでその肖像を見ることができ、愛称「Sisi / Sissi(シシィ)」の文字を目にすることだろう。

 

ケーキにもなっちゃう

 

オーストリアはフランスと同様、共和国となり、帝政時代の遺産は今、国民のために広く使われている。ハプスブルクの名が現在、表舞台に出てくることはほとんどないが、かつてとは全く別のやり方で広く人々に貢献している、と言えるのではないだろうか。

奢れるものは久しからず。だが、文化は残る。

 

 

世紀末ウィーン」という現象があるが、ウィーンが19世紀末当時、稀に見る多民族都市であったことも文化が大きく花開いた要因だろう。当時のオーストリアはイギリスなど比較にならないほどの多民族国家だ。ゲルマン、スラヴ、マジャール、ラテン、ケルト、ユダヤ、オスマンのアラブ。首都ウィーンでは多くの価値観が生まれ、思いやアートが醸成され、爛熟期を迎えていった。

しかし、この世はうたかた。

オーストリアは世界地図の上では領土を縮小していき、現在に至る。

たった4日の旅だったが、現在も思いのほか多くの国籍の人々がこの国・街に暮らしていることがわかって非常に興味深かった。ウィーンで花開いたカフェ文化の現在を担うウェイター諸氏は、見るからにラテン系か、トルコ・ルーツだ。その誇り高き働きぶりはまさにパリのギャルソンに比するものと見た。

 

美術史美術館のカフェを上階から。

 

古都ウィーンは、ハプスブルクの栄光を失ってなお、エレガントで賑やかな街だという印象を受けた。多くの宮殿がミュージアムとして蘇り、クリスマスなど関係なく営業していた。古いものは新しい価値観のもとで再利用され、訪れる全ての人に恩恵を与えている。

国民に主権があり、一人ひとりが栄え、それぞれの思いが政策に反映される新年であってほしいと、強く願う。

 

ウィーンは辻馬車がよく似合う!

 

2024年、明けましておめでとうございます!

新年に日本で起こった激震により亡くなった皆様のご冥福を、心よりお祈りします。そして被災された皆様、怪我をされた方々に、衷心よりお見舞い申し上げます。

今年もあぶそる〜とロンドンを、どうぞよろしくお願い申し上げます。

皆様にとって幸多き一年でありますように!

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About Author

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岡山県倉敷市出身。ロンドンを拠点に活動するライター、編集者。東京の文芸系出版社勤務、雑誌編集・ライターを経て、1998年渡英。英系制作会社にて数多くの日本語プロジェクトに関わった後、2009年からフリーランス、各種媒体に寄稿中。2014年にイギリス情報サイト「あぶそる~とロンドン」を立ち上げ、編集長として「美食都市ロンドン」の普及にいそしむかたわら、オルタナティブな生活、人間の可能性について模索中。著書に『歩いてまわる小さなロンドン』(大和書房) 『ロンドンでしたい100のこと』『イギリスの飾らないのに豊かな暮らし 365日』『コッツウォルズ』(自由国民社)。NHK文化センター名古屋教室「江國まゆのイギリス便り」講師。MUSIC BIRDのラジオ番組「ガウラジ」に月一でゲスト出演。チャネリングをベースとしたヒーラー「エウリーナ」としても活動中(保江邦夫氏との共著『シリウス宇宙連合アシュター司令官 vs.保江邦夫緊急指令対談』もある)。Instagram: @ekumayu

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2件のコメント

  1. アバター画像

    LONDONLOVEさま

    まさにおっしゃる通りですね^^
    多くの価値観はキーワードだと思います。
    ロンドンのパブ文化も捨てがたいですが笑♡

  2. 多民族、多くの価値観、、、、、がキーですね。
    それらによって、思いやアートが醸成、、、
    そういう環境を願います。

    ウイーンのカフェ文化、いつか満喫してみたいです‼ (o^―^o)

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