クリスマスは終わったけれど、 フェスティブ・シーズンは続く。
イギリスではまだツリーを飾っているし、お正月まではお祭り気分。非日常の中で、それぞれが年度末の思いを抱えていることだろう。
クリスマス当日。
約束の場所に向かう途中、意外とオープンしている店が多いことに気づいた。個人商店やパブだけでなく、カフェやレストランなど、昨年よりも、もっと多かったかもしれない。
ロンドンは言わずと知れたコスモポリタンシティで、統計によると人口の約4分の1がキリスト教徒ではないという。つまりクリスマスを「祝う」風習はなくても、英国の文化に敬意を表し、家族で食卓を囲んで楽しむだけの人口も存外に多いということだ。
ただし働かないことにしているのはキリスト教徒だけかもしれなくて、イスラム教やヒンドゥー教の人たち、中国から来た人々も含めて12月25日は平日と同じ感覚でいる少数派もいるようだ。
あるいは別の理由で営業している店もあったのかもしれないが。
少数派といえば、クリスマス・ティナーを自宅で食べない私のような風来坊もその仲間だろう。マクドナルドで一人バーガーにかぶりつく学生風の男性や、スターバックスでコーヒーを楽しんでいる人も大勢いた。それぞれのクリスマスの過ごし方があり、誰もが家族とテーブルを囲むわけではない。ロンドンは特にそういう人が多いと感じる。
車通りの多い大通りをてくてくと歩いていると、ドレッドヘアの中年女性に、道を尋ねられた。路上で物乞いをしている人だとすぐわかったが、あいにく食べ物の持ち合わせがなかったので(私はなるべく現金ではなく、食べ物をあげることにしている)相手の機先を制して「Sorry」と言って立ち去ろうとすると
「道を聞いただけなのに! なんでそんな態度なの?」
となじられた。私ははっとして引き返し、こう聞いた。
「ごめんなさい、どの通りかしら?」
「xx通りよ。どうやって行くか知ってる?」
「わからない。ごめんなさい。」
「OK」
向き合うと彼女はしっかりとした口調となり、目を見て話すと、彼女もちゃんと私の目を見て話してくれた。もしかすると真面目な私に苛立たしさを感じていたかもしれない。でも、そうすることが今日この日、必要だと感じた。双方にとって。
彼女を後にして、私は歩きながらその出来事を反芻していた。
クリスマス当日、路上で物乞いをする人たちも多い現実がある。さっきの女性は白人のイギリス人で、きっと長くロンドンに住んでいる地元の人だろう。ホームレスの人たちや物乞いをする人たちは決して移民が多いわけではなく、白人のイギリス人が多い。これはロンドンで生活していて実感していることだ。
それはどういうことかというと、貧困や生活格差の問題が新参者で貧しくなりがちな移民と直結しているのではなく、もっと遠い昔からこの国が抱えている問題だということではないか。
貧困や生活格差の問題はつまり、思いのほか深く社会に根ざしており、社会や政府が一丸となって取り組まなくてはならないことだ。この編集長コラムでは何度か書いていることだが、21世紀にもなって路上で寝ている人がいる社会など、とうてい先進国とは思えない。どこに問題の本質があるのか、よく考えてみる必要がある。
人々が路上に放り出される理由は個人的な問題だと思われがちだが、それは表面的なことで、実は歴史的にも社会的にも問題がある。そこは、個人が意識を研ぎ澄ませてみなければならない領域だ。
今、Netflixを賑わわせている「ハリー&メーガン」のドキュメンタリーを観た人たちの意見は真っ二つに分かれるようだ。より保守的な人は二人を悪者にし、進歩的な考え方の人が彼らを支持している。と明言すると、語弊があるだろうか? 私は間違いなく若い彼らを応援したい。
さ、あと数日で新年の幕開けだ。
皆さんは、どのような年にしたいと思われているだろうか。
PS
寒い思いをしている誰かへ、温かい飲み物や軽食を配るヘルプ・ポイントも、クリスマス・デーの散歩で何箇所かで見かけました。炊き出しをするスープ・キッチンも出ていたはず。