【新連載】ボストン・ティー・パーティーの始まり!? 

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船は来る 薄ら笑いかほほえみか分からぬ顔をして 船が来る

はじめまして、渡邊千歳と申します。
ロンドンに住んだあと、今はアメリカのボストンという北東部の都市に住んでいます。これから「アメリカで見つけたイギリス」を、いろんな角度からお伝えできればと思っております。よろしくお願いいたします!

私は昔から短歌をつくっています。小学生のときに俵万智さんの「旬のスケッチブック」というエッセイ集を読んで、「大人の読み物って小難しいものだと思って敬遠していたけど、こんなに面白いの?!」とびっくりし、俵万智さんにどハマりして歌集やエッセイを読みあさっていました。そのうちに自然に自分でも短歌を詠む(つくる)ようになり、今に至ります。

冒頭の短歌は、この度マサチューセッツ州のプリマスを訪れた際に浮かんだ歌です。歴史的背景については後述しますが、プリマス(と現在呼ばれている土地)には先住民がいて、そこにイギリスから植民者たちが船でやってきて、結局武力によって先住民を一掃した、という経緯があります。正直、ひどい話です。突然海の彼方から現れた船を、先住民たちはどんな気持ちで見ていたのだろうか・・・と思いながら、詠みました。
これからも毎回短歌を添えられたらと思っています。

さて、今回訪れたプリマスですが、この地は1620年に、イギリスからメイフラワー号でやってきた植民者たちが到着した土地です。

海岸に着くとすぐメイフラワー号がありました!しかしこれは複製で、正式名称はメイフラワー二世号(Mayflower II)。その場にあった掲示によるとイギリスで造船されたんだとか。オリジナルのメイフラワー号は、1624年以降消息を絶ったとのこと。

この植民者たちは、現在では、ピルグリム(Pilgrims)やピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim fathers)とも呼ばれています。ちなみにピルグリムという語は19世紀に生まれた造語で、”Pilfrimes” (巡礼者)にちなんでつけられたそうです。

私のガイドブックには、このプリマスに着いた植民者たちが最初のアメリカ移民である、と書いてあったのですが、他の資料を読んでみたところ、実はもっと昔から入植していた人たちがいたんだそう。そういった先達たちにあらかじめ情報をもらいつつ、彼らは大西洋を横断し、プリマスに腰を落ち着けたわけです。確かに当時としては命がけの船旅で新天地を目指すわけですから、事前に入念に下調べしますよね。
入植したのは最初ではなかったけれど、アメリカの歴史においてかなり大きな役割を果たした人たちとして、名を残しているのだと思います。

そもそも彼らがなぜアメリカを目指したのかというと、当時のイギリスでの宗教政策に相入れなかったから。16世紀のイギリスでは、ヘンリー8世が新しくイングランド国教会を設立し、教会の改革を推し進めていました。しかし、そのやり方に同意できなかった人たちもいました。そのうち、外部に全く新しい組織をつくろうとしたのが、分離派(Separatists)と呼ばれる人たちです。この分離派の人の一部が、のちにプリマスに移住してくることになります。

プリマスのビーチ

私は無宗教なので、このあたりの宗教の衝突を理解するのが難しかったんですが、今もそうかもしれませんが特に当時の宗教って、生活の全てを統べるものなんですよね。物事の見方、価値観、理念、生活様式などなど。そういった生き方や毎日の暮らしに影響するところで、自分の考えと違うものを押し付けられたら、反発するのも分かるなあ、と思いました。と同時に、そんな生活の全てに影響するものに歯向かうことの危うさや、危険を持ってしても服従しなかった人たちの意志の強さも感じました。

さて、のちにアメリカに渡ってピルグリムと呼ばれるようになる分離派の人たちですが、イギリスの現在のノッティンガムシャー、ヨークシャー、リンカンシャーのあたりに住み、密かに分離派の教会に集って、強力なリーダーのもと関係を築いていました。のちにプリマス植民地を30年以上治めることになるウィリアム・ブラッドフォード(William Bradford)も南ヨークシャー出身でした。

彼らはアメリカを目指すずっと前から、イギリス脱出を試みていました。1607年には、自由な風潮を求めてオランダに渡ろうとするものの、船長の裏切りに合い渡航は失敗。二度目の挑戦でめでたく成功し、オランダのライデン (Leiden)に居を落ち着けることになります。織物業や印刷業で一生懸命働きました。半数以上がその後もオランダに定住することになります。でも、一部の人たちはなんとなく満足できなかった。

「相変わらず生活は貧しいままだね」
「こどもたちがイギリス人じゃなくてオランダ人になってしまうね」
「スペインと戦争が始まりそうだし」
「やっぱりアメリカを目指すしかなくない?!」

というような会話が交わされ(台詞は完全な想像です)、1617年から、アメリカはヴァージニアへの移住を考えはじめます。ヴァージニア周辺には既にいくつか植民地ができていたので、ある程度の情報共有がされていたのでしょう。イギリスの商人たちに、将来アメリカに渡ったら交易することを約束して、必要なお金を出資してもらいました。

そして遂に1620年7月22日、分離派の人々を乗せたメイフラワー号・・・ではなく、スピードウェル号がオランダを出航します。メイフラワー号はどうしていたのかというと、商人や船の乗組員など宗教にあまり関係のない人たちを乗せて、ロンドンのロザーハイズ(カナリーワーフのテムズ川を挟んだ対岸です)を出航しました。二隻の船は予定通りサザンプトンで落ち合い、長旅の準備を整えて改めて出発します。が、スピードウェル号に漏水などの問題が続発し、最終的に走航不能になってしまったため、一旦プリマスに行き先を変更し、そこから再出発することにしました。それでアメリカで彼らが上陸した土地も、プリマスと呼ばれているんですね!

スピードウェル号に乗っていた人たちの一部はメイフラワー号に乗り換えて、1620年9月16日、改めてプリマスを経ちました。そして文字通り荒波を乗り越えて大西洋を横断し、いくつかの沿岸の土地を下見した後、同年12月26日、現在のマサチューセッツ州プリマス湾に上陸することにしました。

メイフラワー号には、31人のこどもを含む102人の乗客(女性28人、男性74人)と約30人の船員が乗っていました。そのうち最終的に生き残ったのは47人で、船員も半数以上が伝染病などの病に倒れました。しかし彼らの子孫は現在なんと3000万人以上いると言われています。

近くにメイフラワー二世号のミュージアムショップもありました。

メイフラワー二世号はいくつかの施設を有するPlimoth Patuxet Museumsに含まれます。ちなみに、なぜ ”Plymouth” Museums じゃなくて ”Plimoth” Museums なのかがとっても気になってたんですが、17世紀にプリマスを治めていたウィリアム・ブラッドフォード(先述した南ヨークシャー出身の人です)が決めたつづりなんだそうです。当時はスペリングに決まった規則がなく、音にはまるつづりを書き手が自由に選んでいたそうで、文書によってプリマスのつづり方も様々なんだとか。今でも複数のつづりがある単語に出くわすことがありますが、当時の名残なのかもしれません。

プリマスロックもすぐそこにありました。プリマスロックというのは、メイフラワー号の乗客が実際に上陸した場所を示していると言われており、1741年に発見されました。到着した植民者たちが実際に足を乗せたという証拠は残っていないものの、ボランティアガイドの方の話によると、18世紀、アメリカの愛国心を煽るアイコンとしてチラシなどの出版物に掲載され、知名度が一気に上がったんだとか。

石の近くでかがんでいるのは、ゴミを掃除するボランティアガイドの方。降りたはいいけど、どうやってのぼってくるんだろう・・・

 

実はワシントンDCにある国立アメリカ歴史博物館にも、プリマスロックが保管されているんだそう。昔から動かそうとする人や、故意に割って持ち帰る人がいて、砕けてしまったんだそうです。有名になって破損が相次いでしまったんでしょうか。現在はちゃんと監視カメラもついていて破損対策がしっかりしています。

市内観光のあとはSandy’sという浜辺のレストラン、というか海の家に行ってみたのですが、とってもよかったです!!

砂浜の入り口に人が立っていて、Sandy’sに行くというとそのまま通してくれましたが、ビーチに行く場合は$20の入場料が必要みたいです。11時に開店してすぐ行ったのですが、店内には既に何組ものお客さんがいました。支払いは現金のみで、オーダーは店員の方が紙にメモを取ってくれる形式。いい!
Squareの支払端末(小売店で頻繁に遭遇するタッチパネル)はもちろん便利ですが、人と関わると不思議と安心します。あれこれ注文を悩んだにもかかわらず、店員の方はとても親切でした。

ロブスターロール。さっぱりしていてとてもおいしかったです。

ビーチもきれい!また来たいです。

次に来るときは、Plymouth Patuxet Museumsの他の場所にもぜひ行ってみたいなと思いました。特に先住民であるワンパノアグ(Wampanoag. 複数の種族の総称)について学べるHistoric Patuxetについては、ここに行かずしてプリマスに言ったというのはおこがましいのではないか?!と思っています。

プリマスの植民者について調べる中で、ワンパノアグの人々の悲壮な歴史も知ることになりました。
初めは穏健な関係が築かれており、ワンパノアグの人々は狩りや、農作、収穫方法などを教え、植民者を飢餓から救いました。ワンパノアグは近隣のナラガンセット (Narragansett) という部族を警戒していたため、イギリス人入植者と繋がりが役立つのではという計算もありました。ワンパノアグの酋長 (Massasoit)はウサメキン (Ousamequin)の時代です。到着の翌年、1621年は豊作だったことから、植民者たちはワンパノアグを招いて盛大な祝宴を開き、これが後に「最初の感謝祭 (Thanksgiving)」と呼ばれるようになります。

しかしながら、イギリスからどんどん入植者が到着し、天然痘などの伝染病が持ち込まれたことで、1630年代までには先住民は数としては少数派となってしまいました。そして1662年にウサメキンが亡くなり、緊張感は高まるばかりでした。イギリス人植民地は拡大し、過去の協定は破棄されました。1675年には植民者が和平協定をもとに先住民から銃を取り上げようとし、先住民3人を殺人罪で絞首刑に処したことで、関係は限界に。

1675年6月、ウサメキンの息子であり継承者のメタコム (Metacom)の指揮の下、先住民たちが反乱を起こしました。ワンパノアグ、ナラガンセット、ニップマック (Nipmuck)、ポカムタック(Pocumtuck) らの部族です。メタコムはイギリス人植民者にフィリップ王と呼ばれていたため、フィリップ王戦争ともいわれます。戦いは14ヶ月にも及びました。戦争が終わる頃には、ワンパノアグとナラガンセットはほとんど壊滅状態になってしまいました。現在のワンパノアグの数は4千から5千人で、カリブ諸国にも、奴隷として送られたワンパノアグの子孫がいます。

善悪の基準や、倫理観、歴史的事実の解釈は、時代によって変わるものだと思います。その上で私としては、上記のような先住民の歴史を知ると、つらく、かなしい気持ちになりますし、植民者たちに対して非道で野蛮な印象を持ちます。
お世話になった先住民の土地や命を奪って、領地を拡大していくとか・・・。ないわあ・・・。
しかしながら、その400年後に移民としてアメリカにいる私も、その歴史のしっぽに生きているわけです。ピルグリムたちが入植した後、着々と経済的に発展していったアメリカという国で恩恵を享受しているわけで、傍観者として一方的に糾弾できる立場ではないなと思います。

ちなみにHistoric PatuxetのPatuxetというのは、メイフラワー号の植民者たちが入植することにした土地の、もともとの呼び名です。植民者がどこに上陸するか考えながら沿岸の土地を下見していたときに、とうもろこしを栽培していた開拓地や廃屋がある場所を見つけ、結局そこに根を下ろすことにしたのです。このPatuxetはもともと先住民が住んでいたのですが、ヨーロッパからの植民者が持ち込んだ伝染病によって廃村となってしまったところでした。

失われたものは決して戻りませんが、こうしてミュージアムの名称や展示として出来るかぎりアメリカの歴史が保存されようとしているのは、いいことだと思います。
そうでなかった時代の方がずっと長かったはずなので。

参照:
Mayflower 400: https://www.mayflower400uk.org/
Plimoth Patuxet Museums: https://plimoth.org
See Plymouth Massachusetts: https://seeplymouth.com
国立アメリカ歴史博物館: https://americanhistory.si.edu

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東京都下町生まれ。歌人。中学生のときにNHKの短歌コンクールで特選となったことに歓喜し、作歌を続ける。現在は歌人集団かばん関西歌会に参加。ロンドンでの会社員生活の後、アメリカに留学。フィラデルフィア、ニューヨークを経て、家族とともにボストン郊外在住。

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