日英同盟の立役者、小村寿太郎としてのゴミ拾い

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先人の励みて負けも勝ちも過ぎ百十年後の秋の木漏れ日

先日、ニューハンプシャー州の都市、ポーツマスに行ってきました。

ガイドブックを眺めていたところ、ポーツマスの紹介に小村寿太郎(壽太郞)の記載があったため、行ってみたいと思っていました。

というのも、司馬遼太郎が「アメリカ素描」の中で、小村寿太郎のことを「明治人のなかで、わすれがたい存在の一つ」と書いていたので、ずっと気になっていたのです。小村寿太郎というと、日露戦争後の講和条約であるポーツマス条約を締結した人、くらいのゆるい知識しかなかったのですが、調べてみると英国との関わりも深く、明治期の重要な外交交渉を担っていた方でした。

冒頭の短歌は、日本人としてゆたかに平和に暮らせているのも先人たちのおかげだよなあ、ということを、この旅を通じてしみじみ感じたため、感謝の気持ちを歌にしたものです。

小村寿太郎のようなどの教科書にも載っている人物だけではなく、小倉処平や、高平小五郎など、これまでは知らなかった偉人たちや、その家族、周囲の人々にも思いを馳せました。

そしてなぜ小村寿太郎が英国に繋がっていくのかは、後述のお楽しみ。

ポーツマスまではボストンから車で一時間ほど。
当日は残念ながら雨模様・・・
9月初めの肌寒い日でした。

ちなみにポーツマスという都市名も、英国発祥です。17世紀にこの地に植民者を送り込んだジョン・メイソン (John Mason) 船長が、英国ハンプシャー出身であり、ポーツマス港の要塞の司令官だったことから、この地はニュー・ハンプシャー州のポーツマスと名付けられました。

こちらはポーツマス歴史協会(Portsmouth Historical Society)のDiscover Portsmouth Welcome Center。「アメリカ素描」を読む限り、司馬遼太郎もここに来て、寿太郎の座った椅子に腰をかけたはず。現在は展示のみで座れないようですが。

館内のギフトショップをうろうろしていると、係の方が「今日は何の日だか知っていますか?」と声をかけてくださいました。
「いや・・・知らないです。」
係の方「日本とロシアの間で講和条約が締結された日なんです。」
私の心の声『まじか!今日?!』
係の方「それを記念して、今日はパレードがありますよ。お時間が合えば見ていってください。」

偶然にも、私が訪れた9月4日は、ポーツマス条約締結の記念式典がある日だったのです!

しかしパレードは開始が午後遅めの時間だったので、残念ながら見ることはかなわず。
午後3時45分くらいの開始だったと記憶しているのですが、なんでそんな中途半端な時間に?とも思ったのですが、実際の調印が行われたのが午後3時47分だったそうです。

帰って調べてみるとポーツマス条約が調印されたのは1905年9月5日。2010年に制定されたPortsmouth Peace Treaty Dayも、9月5日でした。なぜ今年は9月4日にパレードがあったのか、はっきりとは分かりませんが、私が訪れた9月4日は日曜日だったので、月曜日の翌日5日よりも、式典に適していたのかも。

正直なところ、百年以上前の、しかも外国同士の条約締結をいまだに祝っているというのは不可思議でしたが、ポーツマスの人たちにとってはそれだけ大きな出来事だったのかもしれません。
確かに、当時のセオドア・ローズベルト大統領はポーツマス会議の成功によって、締結翌年の1906年にノーベル平和賞を受賞しています。

そもそもなぜアメリカで講和会議が開かれたのか、不思議だったのですが、調べていくうちに様々な理由があったことが分かりました。

日本もロシアも内政的・財政的に戦いを続けることが難しい状況になったため、日本としては「判定勝ち」を望んでいました。そのための審判官として、アメリカ大統領が適任でした。
伊藤博文の秘書官だった金子堅太郎が、ハーバード大学でローズベルトと同窓だったという縁や、ローズベルトが新渡戸稲造の「武士道」に感銘を受け、日本びいきだったこと、またアメリカ側としても、当時の新興国家として外交面での実績を残したいという考えもあったようです。

余談ですが、テディベアってローズベルト大統領に由来してるんですって!全然知らなかった!!
セオドア (Theodore) という名前の愛称が、テッド (Ted) とかテディ (Teddy) なんだそうです。
その昔、ローズベルトが熊狩りに行った際、お付きの人たちが一匹のクマを追い詰めてローズベルトに打つように促したんですが、彼は「スポーツマンシップに悖る」と言って拒否したそうです。その話がニュースや風刺漫画になって広まり、ニューヨーク州ブルックリンのお菓子屋さんがぬいぐるみをつくってTeddy’s Bearとして売り出し、大ヒットしたことから、テディベアが生またとのこと。すごい商才。

ギフトショップ。”Live free or die”というのはニューハンプシャー州の公式標語だそう。なんか強い。

話をポーツマス会議に戻して、この講和会議の日本側の首席全権委員が、小村寿太郎です。
寿太郎は第一次桂内閣の外相として、日英同盟の際も外交交渉を担っていたという、イギリスとも縁の深い方です。

寿太郎はポーツマス条約締結の3年前、1902年に日英同盟に調印しています。これは当時のアジアにおけるロシアの影響力を抑えるべく、当時ロシアと敵対していたイギリスとの同盟を寿太郎が強く主張して実現したものです。

完全な推測ですが、寿太郎はイギリスに対してとりわけ強い思い入れがあったのではないかと思います。というのも、寿太郎が飫肥藩(現在の宮崎県日南市)の藩校、振徳堂にて学んでいた師の小倉処平(處平)は、ロンドンに留学経験があり、寿太郎は幼いころから欧州の軍事力や経済力について教わっていたはずだからです。

小倉処平は、寿太郎がハーバード大学に留学中に、自刃しています。寿太郎はポーツマス条約締結の翌年、1906年に英国大使に着任していますが、イギリスに関わる時、亡き恩師との思い出を回顧していたのではないかと思います。

ポーツマス会議の実際の写真が、アメリカ議会図書館のウェブサイトで閲覧できました。画像はこちらで:
https://www.loc.gov/resource/ppmsca.08807/

パソコンもないし、飛沫防止のアクリル板もない。
というのは当たり前ですけど、戦争の終わらせ方を決めるという、国同士の重要な話し合いが、この質素ともいえる部屋でなされたことに、ちょっとした衝撃を受けました。
もちろん、写真には決して残らない非公式の話し合いもあっての条約締結なんでしょうけど、多くの人が命を落とし、両国民に多大な影響を与えた戦争の後処理が、このように小さな部屋で、限られた人員の中で決められてしまうことに、薄ら寒さも感じました。

日本側には、次席全権委員として、高平小五郎も参加していました。
前述した金子堅太郎とともにローズベルトを訪ね、「武士道」の書を進呈したのも高平小五郎だそうです。下記リンク前列向かって右が寿太郎で、その左横に座っているのが高平小五郎です。
https://www.loc.gov/resource/ppmsca.08805/

最後にかっこよすぎる話をひとつ。
寿太郎は、ポーツマスを去る際、ニューハンプシャー州に日本政府として当時のお金で一万ドルの寄付を残していきました。
なんてクールな去り際・・・!!
当時の一万ドルは、当時の為替レートだと約二万円、現在の貨幣価値で大体一億円くらいです。(換算は国立国会図書館レファレンス共同データベースを参照)

外交官としての計算もあったでしょうが、それだけ恩義を感じていたということだと思いますし、それを後世に残るかたちで残してくださったことに、部外者の私も感謝の念を禁じ得ません。
ロシア側も、その事実を知り、三日後に同額の寄付をしたそう。
これらの寄付は、現在でも日本慈善基金 (Japanese Charitable Fund)として存続しており、ニューハンプシャー州の州務長官、州財務官によって今も管理されています。

そして、寿太郎の生まれ故郷、宮崎県日南市は、ニューハンプシャー州ポーツマス市と姉妹都市を結んでおり、中高生の交流語学研修等が行われています。寿太郎の功績が、このように有形無形に遺されて存続しているというのは本当に喜ばしいことです。

今回も、前回同様、歴史について調べながら文章を書いていますが、学生の頃は歴史の授業が苦手でした。高校の世界史のテストで39点をとったこともあります(ちなみに120点満点のテストでした)。カタカナが覚えられず、なんとか二世とか三世とかもまるで覚えられず、勉強が本当に苦痛だった。

それが変わったのは、外国に住むようになってからです。世界史はもちろんのこと、日本の歴史に否応なく引き寄せられるようになりました。知らねばならない、という責任感がわいてきたのだと思います。

日本人がアメリカで平和に暮らせるようになったのは、日系移民の長い歴史からみればここ最近のことです。
国家の中枢に関わる人たちも、一般の移民の人たちも含め、先達たちが大変な苦労をしながら、礎を築いてくれたおかげです。

アメリカの日系人の歴史については、またいつか、もっと力と勇気が身についたら書きたいと思っていますが、どこにいても、日本人の末裔として、先人の功績や善なるところを継承しつつ、自分もできるだけよいことをしていきたい、自分が受け取っているものを後の世代にも引き継いでいきたい、という思いが強くあります。

ポーツマスを訪れたことで、小村寿太郎や、小倉処平、高平小五郎、その家族や周囲の人たちなど、数限りない方々の足跡がいまも息づいていること、先人たちのおかげで今があることを、実感することができました。

うちの近所の公園は、よく飲食物のゴミが落ちています。子供を遊ばせる身として、常々気になっていました。
なので、できるときはゴミを拾うようにしています。日本人として云々ではなく、純粋に自分のためにやっていることですが、こういうささやかなことも、何か大きな善きことの一部になるはずだと思っています。
(改めてこう書くと本当にちんまりした話でお恥ずかしいですが・・・)

どんなに遠くまで行っても、いや遠くに行けば行くほど、僕らがそこで発見するものはただの僕ら自身でしかないんじゃないかという気がする。

というのは、村上春樹がノモンハンを訪れたときに記した言葉ですが(「辺境・近境」)、いやほんとそれですよね、と百回くらい頷きたくなります。

いろんな国に旅したり住んだりしてきましたが、その度に、自分が日本人であることが浮き彫りになり、日本というルーツに舞い戻ってくる実感があります。

最後に、ポーツマスで他に訪れた場所をご紹介します。

こちらはストロベリーバンク博物館 (Strawberry Banke Museum) 。18世紀以降の歴史ある建物や、当時の生活様式が見学できる広々した博物館です。

1歳児を連れていることもあり、見学して回る時間がなかったため、ギフトショップだけ見たいんですが・・・と相談してみると、快く応じてくださいました。親切な受付の方、どうもありがとうございました。


敷地を少し歩くとかわいらしい建物があり、そこがギフトショップだったのですが、内装もとても素敵でした!!写真撮影禁止だったのでお見せできないのが残念です。。。二階建てで、狭い階段をのぼると、屋根裏部屋のようなスペースに織物や子供のおもちゃなどがランダムに置いてあって、見ているだけで楽しかったです。

そして大事な食べ物のお店たち!
ポーツマスは、雰囲気の良いお店が並ぶ素敵な街でした。独立系の地元に根ざしたお店が多く目につきました。

お昼はNew England Fishmongersという魚屋さん兼カフェへ。風通しの良い素敵な店内です。
Scallop Rollを注文したのですが、おおぶりの揚げた帆立がたくさん挟まっていて、とても美味でした!

そのあとはLil’s Cafeへ。
店内は長蛇の列ができており、大勢の人でごった返していたのですが、マスクしている人は店員も含めてゼロ。
あとで知ったのですが、ニューハンプシャー州は反マスクの土地柄なんだそうです。なるほど。

クルーラーという名前の、グレーズドドーナツが名物のようで、いくつも味があったので全種類買ってみました。評判通りおいしかったです。あとはピザパンも巨大で美味でした。

マグカップなどのオリジナルグッズもかわいかった!
次に行く時はサンドイッチも食べてみたいなあ。

参照:
司馬遼太郎「アメリカ素描」(新潮文庫)
村上春樹「辺境・近境」(新潮文庫)
国立公文書館 アジア歴史資料センター https://www.jacar.go.jp/
Library of Congress(アメリカ議会図書館) https://www.loc.gov/
National Park Service  https://www.nps.gov/index.htm
New Hampshire Secretary of State  https://sos.nh.gov/
ONLINEジャーニー https://www.japanjournals.com/
国立国会図書館レファレンス共同データベース
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000025530
在ニューヨーク日本国領事館 https://www.ny.us.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html
日南市教育委員会「紙芝居 小倉処平」
松村正義「もう一人のポーツマス講和全権委員 ─高平小五郎・駐米公使─」外務省調査月報 2006

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東京都下町生まれ。歌人。中学生のときにNHKの短歌コンクールで特選となったことに歓喜し、作歌を続ける。現在は歌人集団かばん関西歌会に参加。ロンドンでの会社員生活の後、アメリカに留学。フィラデルフィア、ニューヨークを経て、家族とともにボストン郊外在住。

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