第175話 Kentish hop picker’s cake/ Oast cakes ケンティッシュホップピッカーズケーキ/ オーストケーキ

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<Kentish Hop pickers cake/Oast cakes  ケンティッシュホップピッカーズケーキ/オーストケーキ>

 

イギリスの食の楽しみの一つがビール。パブに行くとカウンターにはたくさんのビールのポンプが並んでいて、定番も飲みたいけれど、ローカルビールも魅力的だし~などと、しばし迷ってしまいます。
ビールがイギリスで作られるようになったのは、はるか昔、ローマ人のブリテン島侵攻(紀元前54年頃)に伴って、と言われていますから、もう2000年以上。イギリスの人々の暮らしに、血液に、いかに浸透しているかが想像できます。

ビールの主な原材料は大麦と水とホップというのはご存知のとおりですが、昔のイギリスのビールにはホップは使われていませんでした。当時はgruit(グルート) と呼ばれるハーブのミックスを香りや苦みをつけるために使用していました。イギリスでビールづくりにホップが使われるようになるのは14、15世紀に入ってから。1520年頃には、カンタベリー近郊にイギリス最初のホップ農場が作られたと言われています。その後、ケントやサフォーク、サリーなどのイギリス南東部を中心にホップ作りが盛んになり、ヘレフォードシャーやウースターシャーなどのミッドランドへも広がりました。
中でもケント州は1650年代には国内生産量のうち1/3を担うようになり、oast house(あるいはhop Kiln)と呼ばれる独特の形をしたホップの乾燥小屋が立ち並ぶようになりました。今もケントやサセックスに行くと、円錐形の屋根を持つ不思議な形の建物に出会えます。

 

ペレット状に加工されたホップ~ ブリュワリーにて☆

そんなケント州のホップ農園が最盛期を迎えるのが1800年代。その頃になると、収穫はとても農園の人々だけでは間に合わず、ロンドンや近郊の村々から期間労働者が雇われました。特に貧しい人々が多く住むイーストエンドからが多く、ピーク時の1820年代から50年代にかけては毎年9月になると何万という人々が出稼ぎにやってくるため、ホップピッカーズ専用の電車がロンドンブリッジ駅から出ていたそうです。その運賃すらも出せない人たちは、36マイル程もてくてく徒歩で移動したとか。
これらの人々の多くは定職を持たない、家庭の主婦とその子供たち。出稼ぎというよりは、澱んだ空気と汚水、狭い住居に閉じ込められた息苦しい生活から、ケントの広々とした、きれいな空気と太陽のもとに脱出できるということで、労働はするとは言え、「Londoner’s holiday」と呼ばれていたことからも分かるように、彼らにとっては半分、ホリデーという位置づけだったそうです。

彼らは「hop huts(ホップハット)」と呼ばれる長屋に寝泊まりし、朝から夕方5時までホップ摘み。食事は屋外の炉(あるいは共同の台所)で煮炊きをし、洗濯は小川や池、藁を詰め込んだマットレス、決して清潔な環境とは言えませんでしたが、それでも産業革命下、工場から排出される煙とゴミとにまみれたイーストエンドよりはずっと健康的な暮らしができたとか。しかもブッシェル単位(容量約36リットル)でカウントされるホップ摘みのお給料は1830~40年代で、ひと家族4週間働くと40ポンド。これは通常の成人男性の平均賃金10週分にも相当する額というから、貧しい人々にとっては、労働は大変でも有難い仕事でした。
そしてその年の収穫をすべて終えると、それぞれの農場主はhop feast と呼ばれる宴を催し、豚の丸焼きはじめ、食べきれないほどのご馳走を並べ、労をねぎらいました。
普段の生活は、毎日じゃが芋とパン、わずかのチーズとピクルスなど貧しいものだったようですが、時には農場主から、野菜やお茶の時間にはケーキなどが差し入れられることもあったとか。

 

しっとりスパイスの効いた「ケンティッシュホップピッカーズケーキ」☆

そんなケーキの中から今日ご紹介するのは「ケンティッシュホップピッカーズケーキ(ケント州のホップ摘みのケーキ)」と「オーストケーキ(ホップ乾燥小屋のケーキ)」~「 Hopping cakes ホッピングケーキ(ホップ摘みケーキ)」と呼ばれることも~。どちらも貴重な卵の代わりに、水分として牛乳やビールを加えるケーキです。
ホップピッカーズケーキは小麦粉にバターを入れて、サラサラにしたところに、お砂糖とドライフルーツとスパイスを入れ、温めた牛乳とトリークル少々を加えて焼いたローフ型のケーキ(牛乳の半量をビールにすることもあります)。卵が入らずたっぷりの牛乳を入れるので、ふんわりではなく、しっとりとした食感。
オーストケーキのほうはさらにシンプルです。小麦粉に少量のラードを加えてさらさらの状態にしたら、ほんのわずかのお砂糖とお塩を入れて、カランツをプラス。お水とレモン(あるいはエール)を入れて丸め、多めの油で揚げ焼きにします。これはこれで、揚げたては表面さっくり中ふんわりの意外に美味しいお菓子です。いずれも今の時代からすれば大分質素なケーキですが、日ごろの貧しい食生活、疲れた体には十分にご馳走だったことでしょう。

 

フライパンで揚げ焼きにする「オーストケーキ」☆

 

1900年代に入ると、ホップ農園に賑やかに響いていたhopping song(ホップ摘みの歌) の歌声も次第に遠のいていきます。海外から安いホップが輸入されるようになり、国産ホップの需要は減り、収穫の機械化も進んだことから、このhopping down (ホップ摘みホリデー)も消えていきました。最盛期で、31,000ヘクタールを誇ったケントのホップ畑も2003年にはわずか1,200ヘクタールまでに減少。今ではイギリス全土でもホップを作っている農家は50余りしかないそうです。

ビールに独特の苦みと香りを与えるだけでなく、雑菌の繁殖を抑えてビールを長持ちさせてくれるホップ。昨今のワインやジンのブームに押され、勢いのないイギリスのビールですが、国産の原料にこだわるマイクロブリュワリーなどは少しずつ増えてきているよう。残念ながらホッピングケーキは姿を消してしまいましたが、イギリスビールのいちファンとしては、これからもイギリス国産ホップと美味しいビールの人気復活を願うばかりです~さらに願わくば美味しいホッピングケーキの復活も!

 

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About Author

宮城県仙台市出身☆ 2008~2012年イギリスにてイギリス文化&イギリス菓子を大吸収するかたわら、日本で主催していたお菓子教室をつづけていたところ、あぶそる~とロンドンの編集長に出会う。 現在の居は巡りめぐって宇都宮。イギリス菓子教室 'Galettes and Biscuits' にてイギリス菓子の美味しさ&魅力を静かに発信中☆ 2018年2月 美味しいイギリス菓子をぎゅ~っと詰め込んだレシピ本「BRITISH HOME BAKING おうちでつくるイギリス菓子」、2018年 12月 「イギリスお菓子百科」。2020年12月「ジンジャーブレッド 英国伝統のレシピとヒストリー」、2021年9月「British Savoury Baking 古くて新しいイギリスのセイボリーベイキング」 を出版。インスタグラム@galettes_and_biscuits

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